夢桜

淡い桃色の花びらが散っていき、鮮やかな新緑の葉が顔を覗かせてきている。
もう桜の季節も終わりを告げようとしている。
日本人なら一抹の寂しさを覚える風景であろう。
だが今の私は、この桜並木を構成する木々の一つに過ぎなかった。




〜高校は卒業したものの、進学に失敗して浪人生活を余儀なくされた私は惨めな敗北感に苛まれていた。
毎日の予備校通い。テキストの中身を丸暗記するだけの繰り返し。
なんだか、こんな自分が嫌になっていた。




その日も夜遅くまで予備校で時間を過ごし、重い足取りで帰宅するところであった。
途中、家まで真っ直ぐ伸びている桜並木を歩いているとき、どこかから声が聞こえた。

『あなたの人生を譲ってくれませんか?』

はっ、として辺りを見回したが誰の姿も見当たらなかった。

『お願いです。私と替わってください』

確かに声が聞こえる。私は薄気味悪くなって走り出そうとした。

『見てください、この花を。あなたも美しいと思うでしょう』

その言葉に反応し立ち止まると、確かに桜が満開で見事であった。
今まで気持ちに余裕のなかった私は、気付かないでいたのだ。

−ああ、綺麗なものだなぁ−

『あなたも、この桜になってみたいと思いませんか?』

「なれるものならね」

無意識に言葉が発せられていた。
そして急に意識が朦朧としはじめた。




気がついたとき私の姿をした何者かが私に軽く頭を下げ、去っていった。
瞬時に私は理解していた。私は今桜なのだと。
そして、この桜の精だか、それとも今の私と同じような立場だった誰かだかはわからないが、年に一度、花が満開で満月の夜に『契約を交わした者』と身体を入れ換えることが出来るのだ、と。
つまり私が人間の姿になるには少なくとも一年は待たなくてはいけないわけだ。
そして、元の私の身体が戻ってくる可能性はほとんどないであろうことも。




私は深い絶望と悲しみで打ちひしがれていた。
私は私であるという自我はあるものの、今は思考だけの存在でしかなく、動くことも叶わないこの身ではどうしようもなかった。
時間だけが流れ、次第に感覚が麻痺していく。
ただ人間になりたいという思いだけで自分を保っているしかなかった。




時が経ち、私は少しずつ落ち着きを取り戻してくると、次の人生ではどんな人物になろうかと考えていた。
道行く人々を眺めながら、この人が良さそうだとか、あの人もいいなとか、毎日観察するのが楽しみになっていた。
だが、見知らぬ人物では何だか思い入れが足りないのか、そのうち飽きてしまった。
誰か適当な者はいないだろうか?

そうだ私を慕い、学生服の第2ボタンをせがんだあの娘がいい。
私を想ってくれていたのだから、きっと契約も交わしやすいであろう。




彼女は来てくれるだろうか?
来年の桜が満開になる季節に私の元へ。


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