翼の折れた男〜石岡くんの受難〜

『ちょっとヘルシンキへ行くので留守を頼む』

そう置手紙を残し、彼が横浜馬車道の古いアパートから消えて数年の月日が流れた。とはいえ時折どこからか電話をいれてくることもある。大概が用件のみで、なにか資料を送ってくれ、などといった実に無味極まりない会話ともいえない種類のものだったが。そして宛先は外国のどこだかになっている。私のような英語もろくに話せない人間にとって、悲しいことに外国の地名など見ただけでわかるはずはないのだった。ただ現在はストックホルムに落ち着いているようだ。

御手洗がいつか言っていたが、確かに私は、御手洗と暮らすようになって著しく駄目になったように思う。そして貝繁村の龍臥亭事件、犬坊里美との出会い・・・ここ数年は御手洗がいない寂しさなど忘れてしまいそうなくらい、いろいろな事があった。そのことは時間が許せば発表できる機会もあろうかと思う。
だが私は未だに心のどこかに隙間があいたような、すっきりしない気分で日々の生活に追われているのであった。あまり認めたくはないが、御手洗のいなくなった空間を自力で埋めることが出来ないくらいに私は女々しい男であったようである。


「石岡先生お邪魔しますよ」
私が仕事の書き物を終えて紅茶で一息ついていたとき、珍しい来客があった。
「これは・・・竹越さん、お久しぶりです」
警視庁捜査一課の竹越刑事であった。
「どうしたんですか珍しいですね。まあ中へどうぞ」
「いや、そんなに長居はしませんがね」
そう言いながらも恰幅の良い身体をもてあますように入室してきた。来客用のソファに案内し、もう一客ティーカップを用意する。
竹越刑事は最初のうちこそ近況を尋ねるなどの世間話をしていたが、やがて咳払いをひとつすると、それを合図にするようにして口調を改めた。
「ところで今日お邪魔したわけなんですがね・・・」
そして私に、ある事件の説明をはじめたのであった。
・・・ある私立大学の学生が、サークル棟の前で何者かに殺害されたという。彼は航空部に所属しており、そこでグライダーなどを自作するといった活動をしていたのだが、ここ数日は大会間際のために深夜まで作業をしていたらしい。そして殺害された学生は最後まで残っていた一人であり、翌朝、通学してきた学生達によって倒れているのを発見されたのであった。死因は頭部への撲殺である。
「なるほど、痛ましい事件ですね。でも何故ぼくのところに?」
私にとっては当然の疑問である。あの御手洗ならいざしらず、素人同然の私などに事件の話をしていいのであろうか?
「いや、問題はこれなんですよ」
そう言って竹越刑事は胸の内ポケットから手帳を取りだし、挟み込んであったメモ用紙の切れ端を私に見せた。それにはこう書かれていた。

『七草を足せ』

「なんですかこれは?」
「いや、実はこれが被害者である渡部誠一の手に握られていたんですな。いわゆるダイイングメッセージというやつですか」
「はあ」
「いや、私達もなんだか意味を読み取れなくて困っているんですよ。そこでです、作家の石岡先生なら何かいい知恵でも浮かぶんじゃないかと思いましてね」
「そんな、買かぶり過ぎですよ」
「いやいや、例の貝繁村の事件、あれは先生が解決したとお聞きになってますよ。今回もぜひこの問題を解き明かしてくれませんかね」
「あ、あれは御手洗の力添えがあったので・・・」
「そう、それ!その御手洗さんにもできればご協力をお願いしてくださいよ」
そういうことか、とようやく私は気がついた。どうやら彼は御手洗の尋常ならざる推理力をあてにしているのだ。
「しかし御手洗は現在ストックホルムですし・・・」
「いや、なんでもいいんですよ。少しでも何か思い浮かんだら私まで連絡をお願いします」
言いたいことだけ言って竹越刑事は行ってしまった。あえて聞かなかったが、よほど捜査が難航しているのであろうか?

まあ仕事も一段落したことであるし、少しこの謎を考えてみるのも悪くはない。私も以前は謎解きにいれ込んでいた時期もあったのだ。もっとも御手洗によって、ことごとく推理を否定されてしまったが・・・。
それにしても七草とは一体何の事であろうか・・・。とりあえず一般的に連想する七草の種類を思い出してみる。

『セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ』

確かこれで合っているはずだ。それにしても今の若い学生が七草など良く知っていたものだ。もし被害者の残した言葉ががこの七草の事であればだが。
そこへ思考を妨げるがごとくベットサイドに置いたテーブルの電話が鳴った。受話器を取るとかん高い女の子の声が耳を打つ。
「もしもし!先生!」
聞き覚えのある弾んだ声が叫ぶように言う。声の主が誰であるか、私にはすぐ解った。
「あー、里美ちゃんか!」
現在、横浜のセリトス女子大に通う犬坊里美からであった。どういうわけか私のような冴えない中年男にいつも会ってくれる、ほぼ唯一といってよい年若い女友達であった。
「先生ー、時間あいてますう?よければお昼一緒に食べませんかー?」
「ああいいよー。じゃあ、いつものポニーでいいかな?」
ポニーは大衆食堂である。本来なら彼女のような若い女の子が行くような場所にはふさわしくないと思っているのだが、一度せがまれてやむをえず連れて行って以来、彼女の方が店を気に入ってしまったようなので仕方がない。私としては、もう少しお洒落な店へ案内したい気もしているのだが・・・
それはともかく里美に会えるのは素直に嬉しい。若い女の子と話が出来ることで私自身もなんだか若返ったような気がするからだ。

「あー、先生ー!こっち、こっちー!」
彼女はもうポニーの前で待っていた。まるで幼い子供のように飛び跳ねながら大きく手を振っている。ドレス風の白いスカートが上下になびき、私は心ならずもドキッとした。
今の行動で肩まである長い髪が少し乱れていたが、彼女は一向に気にする事もなく無邪気な笑みを向けてくる。
私もつられて手を振り返しながら返事をする。
「お待たせー、すぐ行くよー」
「もうお腹ペコペコですよー」
「ははは、それじゃ早く中に入ろうか」
いつものエビフライ定食を注文し、私たちは他愛もない会話を楽しんだ。里美の学校での出来事。最近始めたインターネットの事。そんな彼女の話を聞くのは楽しかった。自然と表情が和んでしまう。
「ねえ先生もインターネットやりましょうよー」
「いやあ、ダメダメ。ワープロだけで精一杯だよ」
「ワープロ打てるなら大丈夫ですよー、Eメール交換しましょうー」
「Eメールかぁ、興味はあるんだけどねー。こんなおじさんになっちゃうと覚えられそうもなくて・・・」
「もう先生いつもそれー、もっと自信持ってくださいよー」
「ははは、あ、そうだ。里美ちゃんは七草の種類なんて知ってるかなー?」
私には、これ以上パソコンの話をするのは辛かったから話題を変えることにした。もちろん先刻の竹越刑事の言葉が頭に残っていたからだが。
「えー、何ですか突然ー?もちろん知ってますけどー。確かセリ、ナズナ・・・」
食事をしながら私は竹越刑事から聞いた話を里美に説明した。彼女は相槌をいれながら聞いている。一通り話が終わり、彼女に感想を求めた。
「どう?」
「難しいですねー。でも先生ならきっと解けますよー」
「いやー、それが皆目見当もつかなくてね」
「そうだ、その学校に行ってみましょう。やっぱりそういうときは聞き込みですよー」
実は私もそうしようかと思ってはいた。ただ、まだ今一つ気分がのらないでいたのだ。
「一緒に行ってくれるかい?」
「もちろんですよー。なんだか面白そうー」
彼女が来てくれれば学生相手に話も聞きやすいであろう。どちらかというと話下手な私にとって彼女の存在は心強かった。

私達は被害者の通っていた桐苑横浜大学へやってきた。早速サークル棟で航空部を探す。
航空部は敷地の外れに位置していた。ずいぶん大きな機材が沢山あるようだから当然であろうか。
「こんにちわー。航空部の方ですかー?」
里美が近くにいた作業着姿の男子生徒に声をかける。
「え、ああそうだけど。何か?」
「えーとですね、この前の事件について、ちょっとお話を聞かせてほしいんですけどー」
彼女がそう言うと、途端に彼は怪訝な表情をした。そして私の方に視線を寄せる。
「あの、失礼ですが警察の方でしょうか?」
「あ、い、いや違うんだけどね、ちょっと知りたいことがあるものだから」
「ちょっと先生ー、もっとはっきり聞いた方がいいですよー」
「先生?」
彼は里美の言葉に反応して聞き返してくる。
「そうですよー、ミステリ作家の石岡和己先生。何冊も本出してるんですよー」
それを聞いた途端に、彼は驚愕の声をだした。
「ああ、石岡先生ですか。僕ファンなんですよ」
「そ、それはどうも」
まさか私のことを知っているとは予想もしなかったので、とっさに気の利いた返事が出来なかった。
「そういうことでしたら何でもお話しますよ。あ、あとでサインお願いしていいですか?」
「ほら先生ー、ご自分で思ってるよりずっと有名なんですよー」
里美が嬉しそうな表情をして私の背中を軽くポンと叩いた。

彼は工学部の3年生で山口崇だと名乗った。被害者を発見したうちの一人だということである。
「いや、本当に驚きましたよ。その日は一時限目から講義があったので早めに登校したんです。講義が始まるまでには少し時間があったので、じゃあグライダーの整備でもしようかと、仲間と一緒にここへ来たんですけどね」
「そういえば何か大会があるとか聞いたよ」
「そうです。で、ガレージのシャッターを開けようとしたら、もうすでに開いてるんですよ。ひょっとして僕らより早く来たやつがいるのかなと思って近付いたんですが、そしたら足元の方に・・・」
ここで彼は一息ついた。
「・・・渡部くんが顔を血で真っ赤に染めて倒れていたんですよ。僕達は驚きのあまり声も出ませんでした」
「・・・最初は何か事故でも起こしたのかと思って、慌てて学生課に連絡して救急車を呼んでもらったんですが」
「・・・到着した救急隊員の方が一目見て、これは警察に届けた方がいい、ということになって・・・」
「・・・それから警察の人があちこち調べて、これは殺人の疑いがある、と言って・・・僕達もいろいろ聞かれました」
彼はその時の様子を思い浮かべたのか、冴えない顔つきになっていた。
「彼の交友関係なんかはどうだったの?」
「ほとんどこの部の人間だけじゃないでしょうか。もうじき講義が終るので他の連中も来ると思います。その時に紹介しますよ」

彼の言葉通り、それから10分もしないうちに何人かの学生がやってきた。二人ばかり女子生徒も混じっている。
「あ、来ましたね。じゃ紹介しますよ」

草薙聖児・航空部部長。奈良笹久朗・被害者の親友。小鳥遊美佐・被害者の恋人。羽山美樹・美佐の友人。河埜優夫・被害者の同級生。

このうち私は被害者の恋人である、小鳥遊美佐に注目した。親友であるという奈良笹久朗からも何か重要なことが聞けるかもしれない。
「君、小鳥遊さん?彼について何か思い当たることはありませんか?」
「・・・いえ、私にはわかりません・・・」
彼女はまだ恋人を亡くした心の傷が癒えずにいるのか、悲しみの表情に包まれている。その姿を見てしまうと、あまり深く追求は出来ないような気がした。友人の羽山美樹が何か慰めの言葉を投げかけている。
「では、最後に渡部くんの姿を見た人は誰かわかりませんか?」
私がそう聞くと部員一同お互いに顔を見合わせながら当日の事を話し合いはじめた。ややあって、
「おそらく僕じゃないかと思います」
と奈良笹久朗が手を上げて言った。
「といっても、ほとんど河埜と同じ位に帰ったんですが・・・確かそうだったよな?」
奈良笹が河埜に同意を求めた。その言葉に河埜も頷く。
「部長はバイトの時間で早くあがってしまいましたし・・・美佐ちゃんも美樹ちゃんも遅くまで残すわけにいかないんで、とっくに帰しましたし・・・」
「山口さんは終電で帰りましたからねぇ」
「では奈良笹くん、何か特に気付いたことなどはありますか?」
私がそう聞くと腕組みをしながら考え込んでいたが、やがて自信なさそうな口調で言った。
「・・・何も思いつきません。彼とは長い付き合いだったので、少しでも何かあれば本人が黙っててもなんとなく気付いていると思いますから」

その後、被害者に恨みを持つような人物はいないとか、帰国子女なので英語が得意であるとか、心理学を趣味にしているとか、あまり意味のないような話ばかりが出てきた。もちろん『七草』について聞いてもみたが収穫はなかった。
ただ小鳥遊美佐が『彼は私の中で生きています』と小さくつぶやいたのが印象的であった。どういう意味にとらえるべきだろうか。
「ありがとうございました。また何かありましたら教えてください」
部員に礼を言って、私と里美は大学を後にした。

「やっぱり亡くなった人の悪口などは言わないですねー」
「まあ、そういうもんだろうね。ただ小鳥遊さんがなにも話してくれないのは残念だったなー」
「そうですねー、また明日にでも出直してみましょうよー」
やはり人の大勢いるところでは話しにくい事もあるだろう。彼女一人だけのときに聞いてみる必要があるかもしれない。明日も一緒に行動することを約束して、今日は里美と別れた。


馬車道のアパートに帰り着く。
ソファに身体を横たえて今日の話を検討してみる事にする。
『石岡くん、思うんだが君は僕といることで知性の退化現象が起こっている』
いつだか御手洗に云われた言葉がふと脳裏をよぎる。私たちの事を知らない他人が聞けば、かなりきつい言い方だと感じるかもしれないが、いまではそれも彼なりに私を気遣っての忠告であったと思っている。事実、私はその言葉に対して反論する事も出来なかったのだから。
『まず事件を最初から整理してみよう』

〜航空部の学生が数人で整備作業をしていた。
〜バイトのため部長の草薙が帰る。
〜女子部員の二人が帰る。
〜終電で山口が帰る。
〜河埜、奈良笹が帰る。
〜渡部だけが残る。
〜翌朝、山口らに渡部の遺体が発見される。
〜渡部の手に『七草を足せ』と書かれたメモが残されていた。

『現時点で解っているのはこれだけか』
とてもじゃないが、犯人に繋がるようなヒントが隠されているようには思えなかった。第一、渡部が殺害された理由もなにも思い浮かばない。それに外部の通り魔的な犯罪かもしれないわけで・・・唯一気がかりなのは竹越刑事も云っていたように『七草を足せ』というメモだけである。

その時、電話の呼び出し音が鳴り響いた。慌てて受話器を取り上げる。
「はい、石岡です」
「やあ石岡くん元気かい?」
「御手洗?御手洗か!」
「ちょっと送ってほしいものがあるんだ。いいかい?右から2つめの本棚の・・・」
「待ってくれ、ちょうどいい時に電話をくれたもんだ御手洗。実はこんな事件があってね・・・」
私は彼のの話を遮り、今回の事件を説明した。最初こそ『人の話は最後まで聞くもんだ』などとブツブツ云っていたが、話が進むにつれ関心を示すようになってくれた。
「・・・ふむ、なるほどね。面白いよ石岡くん」
「今ので何か気付いた事はあるかい?」
「殺害の動機だとかはわからないけどね。でも犯人ならもうわかったよ」
「え、まさか!それは本当かい?」
「今まで僕が君に嘘をついたことがあるかい?もちろん本当だよ」
御手洗の驚異的な推理力は充分すぎるほど承知していたが、それにしても、たったこれだけの説明で犯人が解るものなのだろうか。改めて彼の天才を思い知る。
「それで、誰なんだい犯人は?」
「慌てないでくれよ石岡くん。犯人がわかったというだけでは警察だってどうしようもないよ。事件の背景にあるものまで解き明かさないと意味がない」
「じゃあ、どうする気だい?」
「それは君が考えたまえよ石岡くん」
「・・・僕が?」
「やれやれ、仕方がないな先生は!いいかい、この事件の最大の焦点は被害者の所持していたメモにある」
「やはりそうなのか」
「そこでだ!君はこの事をよく考えて調べてみたまえ」
「七草の事かい?」
「そう、そしてこれは実に簡単なパズルなんだ。七草については一般的に思い描くであろうセリ・ナズナ〜でいい」
「これをどう調べるんだい?」
「だから石岡くんが解き明かすんだよ。いま簡単なパズルだと云っただろう?」
「ええっ!」
「大丈夫だ、君なら問題なく解けるさ。それだけの能力は持ってるはずなんだからね。あ、そうそう僕が頼んだものを忘れずにちゃんと送ってくれよ。じゃ、また進展があったら話を聞かせてくれたまえ」

−ガチャリ−

私が返事をするよりも早く電話は切れてしまった。あいかわらず自己中心的なところは変わっていないようで、思わず苦笑するしかなかった。


気がつくと窓の向こうに朝日が射していた。御手洗に云われた事を考えているうちに、いつのまにか私は眠ってしまったらしい。ソファに不自然な体勢で寝ていた為か身体中の筋肉が凝り固まってしまったような気がする。ひとまずシャワーでも浴びてさっぱりしてきたほうがいいようだ。大きく伸びをして立ち上がる。

入浴を終え、軽く朝食をとったあと謎解き作業を再開する事にした。
七草について、ただ頭の中で考えているだけではとてもわかりそうになかったので、まず紙の上にすべて書き出してみた。

『セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ』

御手洗はこれを簡単なパズルだと云っていた。ならば必ずこの中に答えがあるはずなのだ。単語をバラバラに並べ替えたりと、いろいろやってみる。これが暗号なら置換法などの法則を当てはめていけば解けるのだが、どれもうまくいかなかった。
『御手洗の奴は簡単な、と云っていたのだから、もっと単純に考えた方がいいのかもしれないな』
そこで各単語の頭の部分を一文字ずつ抜き出して並び替えてみた。そうすると一つだけ意味のありそうな言葉が浮かび上がったではないか!

『ホゴスハセスナ』
『保護すはセスナ』

これかも知れない。確か航空部のガレージにセスナが一機あったような記憶がある。
この発見に私が少なからず興奮しているとき、またもや電話が鳴った。出てみると里美からであった。 そこで今しがたの発見を里美にかいつまんで話すと、彼女は
「さすが先生ですねー、すごいですよー」
「いやーそんなことないよ」
「じゃあ、早速調べに行ってみましょうよー」


私と里美は再び航空部にやってきた。前日と同じように山口くんが何か整備作業をしていた。
「あ、石岡先生いらっしゃい。今日も何か用ですか?」
私たちの姿に気付くと気さくな笑顔で聞いてくる。
「こんにちわ。確かここセスナ機あったよね。そいつを調べさせてくれないかな?」
「セスナですか?別に構いませんよ。自由に見ていってください」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
ついでに渡部の彼女である小鳥遊美佐が来ているか聞いてみたが、彼女は本日授業がないため来ていないという事だった。彼女に聞きたい事もたくさんあったのだが仕方がない。

山口くんにガレージの中を案内してもらい、セスナ機のところまでやってきた。
「先生ー、ここに何があるんでしょうねー?」
里美が私の手を引いて聞いた。
「いや、僕だって確信なんかないけどね。あくまで可能性だけだしさ」
「そんなことないですよー、絶対なにかありますって」
彼女の言葉に勇気づけられるようにして私はセスナ機のコクピットを覗いてみた。予想外に狭い感じがする。ざっとみたところは何もないようである。ひょっとして間違っていたのかもしれないな、と弱気の虫が起きた時、シートの座面が取り外せるのに気がついた。
「あれ、これは何だろう?」
シートの下には紙袋が押しこまれていた。取り出して開けてみると何か機械が入っている。
「山口くん。これなんだかわかるかい?」
私の行動を見守っていた山口くんに手渡し確認してもらうが、彼も首をひねった。
「いや、わかりませんね。全然セスナとは関係ないものですし」
その機械は、携帯型ヘッドフォンステレオのような形をしていた。ただゴーグルらしきものが二つケーブルで繋がっており、私ははじめて見る機械であった。もちろん里美も知らないという。
「では、何か手がかりがあるかもしれないし、これ預かってもいいかな?」
「いいですよ。先生が発見したんですし、何か考えがおありなんでしょうから」
私はそんなに深く考えて行動しているわけではないのだが、とりあえず彼の好意に甘える事にして、いったん駅馬車のアパートに戻る事にした。


「先生ー、さっきの早く見せてくださいよー」
私たちがアパートの部屋へ帰ってくると、早速里美が目を輝かせて寄ってくる。
「慌てないでよ里美ちゃん」
「だって気になるじゃないですかー」
そんな彼女を微笑ましく思いながらも、例の機械を取り出した。
それは二つのゴーグルにヘッドフォンがくっついたような感じのものに、ビデオテープ大の箱型の機械が繋がっているだけのものであった。スイッチらしきものが一つある他は何もなかった。
「これは一体何に使うものなんだろうね?」
「わからないですけどー、試してみればいいんですよー」
まあ、ヘッドフォンのようなものがある時点で、何か音楽でも流れてくるだけに違いない。これが事件の鍵になるかどうかは見当もつかないけど、少なくとも人体に害のあるものではなさそうである。
「そうだね、じゃあ一度使ってみようか」
私と里美は向かい合ってそれぞれ頭部にヘッドフォンとゴーグルを乗せてみた。ゴーグルは真っ暗で向こうを見る事が出来ない。
「準備はいいかい?じゃあスイッチをいれてみるよ」
「はーい」
私がスイッチを入れた途端に目の前に何か映し出された。幾何学的な模様が現れては消え、ヘッドフォンからはうねりのある機械音が聞こえてくる。音に合わせて映像が動き、それを見ているうちになんだか高揚感が湧き起こってくるような気がした。
頭がふわっとなったような感じが続いた後、突然音と映像が止まった。どうやらこれで終りのようである。
「終ったみたいだよ。なんだかわけがわからないものだったね」
「本当ですよー、もっとすごいかと期待していたんだけどなー」
「そんなもんだよ。じゃあ取り外そうか」
そう云って私がゴーグルとヘッドフォンを取ると、目の前に男がいた。
「だ、誰だ君は!」
「あれ、先生はどこへ行ったのー?」
お互いに驚愕の声をあげた後、一瞬の間があき、そしておかしな事に気がついた。
「まさか、君は僕じゃないのか?」
「あー!わたしだー!」
そんな馬鹿な。私がそう思った時、ゴーグルを持った自分の手がやけに華奢なのに気がついた。
「え?」
見れば向こうもうろたえながら自分の身体を服の上から触っている。私はおそるおそる目線を下に向けてみた。
「うわっ」
なんとなくそんな予感はしていたが、私はスカートを履いていた。そこから伸びる足は明らかに女のものであった。
「ど、どういうことなんだ?」
「やっぱりこれって・・・」
信じられないが、私と里美の身体が入れ替わってしまったようである。私たちはようやくそのことを認識した。
「どうしましょうー、先生ー」
私の身体をした里美がおろおろしながら云った。自分の身体ではあるが、中年男が女言葉で女の仕草をするのは、あまり気持ちのいいものではなかった。
「どうしようと云われても・・・」
困った私は無意識に腕組みをして考えようとした。その時、何か温かく柔らかいものが手に触れた。
「なんだ?」
見れば組んだ自分の腕によって二つの膨らみが押し上げられていた。胸の谷間が視界に飛び込んできたので、私は慌てて腕を下ろした。
「あー、触らないでくださいよー。先生のエッチー」
「わあ、ごめんごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
私はカーッと顔が赤くなるのを自覚した。
「・・・あ、そうだ。もう一度その機械を使えばいいだけの話じゃないか」
「あ、そう云われてみればそうですよねー。よかったー」
二人して苦笑しながら安堵のため息をついた。そして先程と同じように機械を動かした。ゴーグルの中でめまぐるしく光が煌いたあと視界が暗くなる。私たちは機械を取り外す。
「・・・」
「・・・戻ってませんねー」
どういうわけか今度はお互いの身体が入れ替わる事はなかった。
「先生ー、本当にどうしたらいいんでしょう?」
「・・・」
「ねぇー先生ってばー」
「そうだ、こうなったらもう御手洗に聞くしかないだろう。彼なら何かわかるかもしれない」
私はそれに一縷の望みを賭けて、ストックホルムの御手洗のもとへダイヤルした。呼び出し音が非常に長く感じる。
『はい、御手洗ですが』
御手洗が英語で電話に出た。彼の生活圏が海外である事を感じる一瞬であった。
「御手洗か!僕だよ、石岡だよ。いまとても困ってるんだ!」
「・・・ずいぶん可愛らしい声の石岡くんだね」
「そ、そうなんだ。実は・・・」
私は今までの事をまくしたてるように説明した。御手洗ははじめこそ大人しく聞いていたが、途中から電話の向こうで忍び笑いが聞こえるようになってきた。
「・・・はーっはっはー、こいつは傑作だね石岡くん。笑いが止まらないよ」
「な、何を失礼な、こっちは本当に困っているんだぞ!」
「ははは、そう怒るなよ。おかげで今回の事件はすべて解けたんだからさ」
「え、いまなんて云ったんだ御手洗?」
「事件は解決した、と云ったのさ」
私はその言葉に怒りを忘れ、聞き返した。
「え、まさか本当に!?」
「もちろん本当だとも。さて、その前に少し違う話をしようか。・・・石岡くん、いま僕が脳の研究をしていることは話しただろう?」
「え、ああ」
「脳の研究というものは物理学的把握だけじゃなくてね、分子生物学、遺伝子工学、免疫学・・・それらの連携も含め、いろんな角度からアプローチしている段階なのさ」
「それが?」
「その中には心理学的な方面からも研究しているグループもある。君、視聴覚交換機って知ってるかい?」
「いや」
「言葉通り、お互いの見聞きしているものを入れ替えてしまう機械なんだけどね。まあ僕に云わせれば玩具みたいなものなんだが」
「そんなものがあるのかい?」
「あるんだよ。そこでこいつをヒントにMITの連中が面白いものを造ったんだ。・・・感覚交換機というものだ」
「・・・?」
「お互いの感覚を交換する。早い話がお互いを入れ替える機械だ」
「まさか」
「そう。君たちの使った機械がそれだ。まさか日本にもあるとは思わなかったけどね」
「そ、それでどうすれば・・・」
「落ち着け。まだ続きがあるんだ。・・・といっても現実に人間を入れ替えるなんてことは不可能だ。そこで彼らMITの連中は催眠術に目をつけた」
「なんだって?」
「催眠術だよ。彼らは心理学をメインに研究していたんだからね。そして作り上げた機械はお互いが相手であるという強い自己暗示をかけるものだった」
「自己暗示?」
「そう。それゆえ見知らぬ相手同士ではお互いの情報がないためにうまくいかないという欠点はあったが、まあ身体が入れ替わったと錯覚できる機械が出来たわけだ。だから君は自分を石岡くんだと思い込んでいるけど、実は里美さん本人なんだよ」
「そんな馬鹿な」
「真実さ。自己暗示の結果だから、確か一時間ぐらいで元に戻るはずだ。それほど心配する事はないよ」
その言葉を聞いて私たちはようやく安心する事が出来た。
「殺害された青年は帰国子女で心理学が趣味だと云っていたね?おそらくその関係で手にいれたんじゃないかな」
「そうか」
「では本題だ。あとで竹越刑事に連絡してくれたまえ。そして奈良笹久朗を逮捕するように云うんだ」 「え、まさか彼が犯人なのかい?彼は被害者の親友なんだぞ」
「こいつは間違いないよ。理由ならまたあとで説明するから、とにかく連絡してくれないか。じゃあ忙しいから一度切るけど、またそっちの時間で夜にでも電話してくれ」

果たして御手洗の云った通り、あれからしばらくして私たちは元通り自分の身体に戻った。それから云われたように竹越刑事に電話を入れた。
「なんですって、奈良笹を逮捕しろと御手洗さんがおっしゃったんですな?」
「そうです。そう云ってました」
「うーむ。予想もしておりませんでしたが・・・御手洗さんが云うなら間違いないでしょう。わかりました、すぐに身柄を拘束しますよ。ご協力感謝します」


「いやー石岡先生。奴はすっかり容疑を認めましたよ」
夕刻、竹越刑事が満面の笑みを浮かべながらドアを開けて入ってきた。
「これもみんな石岡先生と御手洗さんのおかげですよ。ところで一体どうして奴がホンボシだとおわかりになったんで?」
「いや、それに関しては、またあとで聞く事になってまして」
「なんだ、ではまた後ほど連絡をいただきたいですな。私はこれから調書をまとめなくてはなりませんので、これで失礼しますよ」

竹越刑事が去ってから数時間。そろそろいいだろうと受話器を取り上げた。
「もしもし、御手洗?」
「ああ石岡くんか、待ってたよ」
「事件の説明をしてくれるんだろうね?」
「もちろんさ。まず僕が疑問に思ったのは被害者の彼女のことだった」
「小鳥遊さんだね」
「そう、彼女は『彼は私の中で生きている』と云ったんだね、確か」
「ああ」
「普通ならその言葉は彼の子供を妊娠しているとか、そういう発想になるかもしれないが、そんな様子ではないだろう?」
「ああ」
「そこで君たちの愉快な体験だ。被害者と彼女はお互いに感覚を入れ替えて楽しんでいたと思われる」
「なるほど」
「それで先程の言葉が説明つく。彼女は彼でもあったんだ」
「確かに」
「そして彼の親友だ。もちろんこの機械の事を奈良笹くんは聞いていただろう」
「そうかもしれないね」
「ところが親友である奈良笹くんには、ある性癖があったと思われる」
「?」
「君は憶えていないかもしれないが、被害者の親友であるというのは奈良笹彼本人から聞いたはずだ」
「そうだったかな?」
「そうなんだよ。つまり彼は同性愛主義者で、被害者の渡部を愛していたと思われる」
「え?まさか」
「そうでなければ辻褄が合わなくなるんだ。事件のあった晩、最後に被害者を最後に見たのは誰だったかな?」
「それは・・・確かに奈良笹だったけど」
「そう、そして彼は見たんだよ。帰ったはずの被害者の彼女が戻ってきて、恋人同士で身体を入れ替えるのを」
「そうなのか?」
「おそらくね。そして奈良笹は思い付いたんだ。いくら渡部を愛したくても男同士では世間が許さないだろう。だが、身体の入れ替わってる今なら女性の身体をした渡部を愛する事が出来る、とね」
「まさか」
「そうして彼は衝動的に渡部の肉体を壊してしまったんだ。こうすれば元に戻る事はないから秘密を知っている自分と付き合わざるを得ないだろうと。ところが思わぬ誤算があった。時間が経てば二人は元通りの身体に戻ってしまうんだ」
「あ、そうか」
「それを知らない彼は哀れにも自分の愛した人を殺害してしまった。その後、悲しみに沈んで、ほとんど何も話さなくなってしまった彼女を見ても、まだ彼女本人であることには気付いていなかったと思われる。・・・渡部が自分の身体が無くなってしまった事に衝撃を受けているだけだと勘違いしていたんだろうね。でなければこんなに落ち着いているはずがない」
「それは・・・」
「そして奈良笹に頭部を割られたあと、自分の自我を取り戻した渡部は真相に気がついた・・・そして最後の力を振り絞ってメモを書き残したのさ」
それでは渡部にとっても奈良笹にとってもあまりに不幸な事件であったといわなければならない。
「そういえば御手洗、君は最初から犯人がわかったと云っていたな」
「そのメモにすべてが書かれていたからさ」
「しかし、他には何も思い付かなかったぞ」
「石岡くん、君はいい線いっていたんだ。ただもう少し考えればすぐに犯人の名前もわかったはずなんだよ」
「え、そうなのか?」
「君は七草の名前を頭の部分だけ並び替えて答えをだした」
「ああ」
「ところが、そこに目がいってしまい、肝心の『七草を足せ』というメッセージを忘れてしまったんだ」
「あ、そういえば」
「そうだろう?そこでもう一つ、単語の終わりの方も抜き出してみれば良かったんだ」
「終わりの方?」
「そう。すると、リ・ナ・ウ・ラ・ザ・ナ・ロの文字が出てくる。そこにはメッセージ通り、ナ・ナと二つのナがあるじゃないか。そこに、ク・サの二文字を足して並び替えてみるんだ」
「なるほど気付かなかった」
「そうして並び替えてみると、そこには犯人の名前が書かれているんだよ」
「え?」
「ナラザサクロウナリ・・・奈良笹久朗なり、さ」
「ああ!そうだったのか」
「今度からは君ももう少し深く考えてみる事だね」
「ありがとう。さすがだな」
「じゃあ、刑事殿によろしく伝えてくれたまえ。次また面白い事件でもあったら教えてくれよ」
そういって電話は切れた。今回も御手洗の推理力に圧倒されるだけであったが、彼の能力がいささかも衰えていないのを知って、誇らしくもあった。

「いやあ、さすがは御手洗だったね・・・あれ、どうしたの里美ちゃん」
私が里美の方へ向き直ると彼女は騒動の元である例の機械を手にしていた。
「先生ー、わたしもっと先生の事を良く知りたいなー」
そういって彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべながら近づいてきたのだった。


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