黒い蝶

夫の様子がおかしい。

冷たい秋雨の降る朝、リビングに駆込んできた義姉さんは溢れる涙で目を赤く腫らしてそう云った。
いつもの起床時間になっても起きてこないので様子を見に行ったら、布団の中で冷たくなっているのだという。

冷たくなっている?

にわかには信じられないことだったが、慌てて兄の元へ飛んでいく。

「兄さん!」

寝室のベッドには兄が眠っている。見た目には何も変わりないように思える。

「兄さん!もう時間だから起きなよ!」

とりあえず兄の身体を揺すってみるが何の反応も示さない。
まさかと思いつつも頬に触れてみる。義姉さんの言うように確かに冷たい。
思いきって布団をめくりあげ、兄の胸に耳を当て鼓動を確認してみる。

「・・・!?」

後から追ってきた義姉さんも、父さん母さんも不安そうに僕の行動を見つめている。

「・・・何してるの?早く医者を呼んでくれよ!」

すでに手遅れのようだと思いつつも、僕は兄の胸に手を添えて心臓マッサージを始めた。
それを見て我に返ったのか、ようやくみんなが動き出す。

「兄さん!しっかりしてくれよ!」

渾身の力と祈りを込めてマッサージを続ける。
もう朝は肌寒い季節だというのに僕の額には汗の玉が浮かび上がってくる。
そこで一度手を止め、窓を大きく開けてから懸命にマッサージに集中する。

いつのまに紛れ込んでいたのか、名も知らぬ黒い蝶が頭上を一周すると、開け放した窓の向こうへ消えていった。




結局、兄は助からなかった。
というよりは義姉さんが気付くよりもずっと前に事切れていたのだろう。

「お気の毒ですが」

駆けつけてきた医者は兄を一目見るなり死亡を宣告した。
そして今後のアドバイスを一通り説明すると帰っていった。
医者に言われた通り、すぐに葬儀屋へ連絡を済ませる。

現実は過酷だ。僕らは惚けている暇もなく、通夜と葬式の準備に追われる事になった。
とても長く感じられる一日が過ぎていく。




あまりにも早すぎた兄の死を悼み、多くの人が我が家に集まってきた。
まず身内だけでお別れをすることになっているのだ。

いつもの日常とは違う空間。喪服の黒で埋め尽くされていくような部屋の中。
重い口調でお悔やみの挨拶が続く。
さすがに父さん母さんはそつなく挨拶を返していく。

一通り身内が集まり挨拶も終わると顔も覚えていない親戚が、
「いやー君も大きくなったねぇ。君が小さい頃はよく遊んであげたものだよ」
などと話しかけてくる。
そのたびに僕は何を答えればいいのか言葉にならなかった。

そして気丈にも義姉さんは台所で料理の支度をしたりと色々忙しそうにしている。
動いているほうが多少は悲しみを忘れられるのかも知れない。

こうして兄の思い出話を主役に通夜は更けていく。
ふと棺の兄を見ると、いつのまに舞い戻っていたのか黒い蝶が羽を休めていた。




葬儀場で兄の告別式がはじまった。
そして厳かに読経が流れる。
兄の友人や会社の人も神妙な顔で頭を下げている。
予想以上に大勢の人が来てくれたことに僕は少なからず驚いた。
これも面倒見の良かった兄の人柄ゆえであろう。

僕の隣では義姉さんが涙を堪えている。
それでも涙は溢れてしまうのか時折ハンカチを目尻にあてていた。
そんな義姉さんを見るのは辛かった。

ふと顔をあげたとき黒い蝶が舞っているのが見えた。

またこの蝶か?と訝しく思う。
あまりにも見かけすぎやしないだろうか。

蝶は優雅に部屋の中を舞い、しばらくして義姉さんの肩に止まった。
もちろん義姉さんは気付いていない。

そして小さく義姉さんの肩が震えた。

ややあって、義姉さんはハッとしたように目を見開き、祭壇上に飾られた兄の写真を見た。
それからハンカチを持った自分の手をかざす様に眺め、落ち着かない様子で自分の服を直している。
よくわからないけど、何か動揺しているような感じだった。




兄の身体は火に浄化され、煙と共に天に消えていった。
義姉さんが名残惜しそうに空を見上げている。

まだ実感はないが、兄は逝ってしまったのだ。




いつもの日常が戻ってきた。

ある日、母さんは義姉さんに、
「お前はもう家の娘なんだからね。気兼ねしないでいてくれていいんだよ」
と言っていた。いきなり何を言い出すのだろう?

あとでそれとなく訊いたのだが、義姉さんのお腹の中には新しい生命を宿しているのだという。
それでようやく母さんの言葉の意味を理解した。

兄の子が、自分たちの孫が産まれてくるのだ。
父さん母さんにとっては、義姉さんを実家に帰すことなど考えられないことなのだろう。
ましてや兄が遺していった血を、義姉さんは新たに受け継いでいるのだ。

ただ・・・僕は義姉さんの様子が今までと違うように思う。
特にどこがおかしいってわけじゃないんだけど、違和感があるような気がしていた。




「ねえ、ちょっといいかな?」
ある日、義姉さんが僕を呼んだ。言われるままに部屋へ入っていく。

ちょっと僕はドキドキした。

最近の義姉さんは子供がお腹の中にいるためか、なんていうのだろう?より女性らしさが増したというか・・・
まだお腹は目立たないけど全体に丸みを帯びつつあって、だんだんと母親の身体に変化していくのがわかる。

「ねぇキミ、まだ女性を知らないでしょ?」

え?

「ふふふ・・・キミさえ良ければ教えてあげてもいいよ」




兄さんゴメン。
僕は義姉さんと、寝てしまったんだ・・・




たった一度だけの過ちに引け目を感じてしまい、僕は義姉さんをちょっと避けてしまうようになったが、義姉さんの方はそれほど気にしていないのか、まるっきり今までと同じ態度で家族に接していた。

一体どういうつもりだったんだろう。僕には未だにわからない。
そして日々は流れていき、義姉さんのお腹もだいぶ目立つようになってきた。
父さん母さんは、そんな義姉さんを気遣い温かい目で見守っている。




もう春の気配が感じ取れるくらいに暖かい日が続いていた。
週末の早い午後。気持ちの良い陽射しに誘われて窓を開ける。
そこへヒラヒラと1羽の黒い蝶が舞いこんできた。

何だか去年からやたらに見かけるようになったな、この蝶。
そういえば、はじめて見かけたのは兄さんが亡くなった日の朝だったんだ・・・

そう思って見ていたときに、どういうことか急に身体が動かなくなった。
全身の感覚が麻痺した感じだ。

くそっ!どうなってるんだ?

そんな僕に向かって黒い蝶が飛んでくる。
瞬きも出来ずに蝶を見つめているうちに強烈な眠気が起こり、やがて意識が消えていった。




気がついたとき、なんだか様子が変だった。
やけに部屋の中が大きく感じられる。
身体は未だに自由が利かないし、それに声すら出てこない。

そこへノックとドアの開く音がして、義姉さんの声が聞こえた。

「あれ、寝てるのかな?」

「もうすぐ夕飯だから起きなさい」

やはり変だ。
なぜか義姉さんの声が僕より下の方から聞こえてくる。

そう思ったとき何かに動かされるように視界が急に上昇した。
わけもわからずなすがままになっていると部屋の中を見渡すことが出来るようになった。

ええっ!?

義姉さんが僕を起こしている様子が見える。
僕はここにいるのに?

でもあれは確かに僕の身体・・・じゃあ、僕はどうなってしまったんだろう?

『う、ううん・・・』

僕の身体が僕の見ている前で勝手に動いている。何故だ?

『あ、あれ?』

「起きた?」

義姉さんが優しく微笑む。

『な、なんで私がいるのよ?』

僕の口からとんでもない言葉が飛び出す。
それを聞いて義姉さんの表情が変わる。

「まさか・・・」

義姉さんは僕の身体をぎゅっと抱きしめる。

「わからないか?俺だよ」
『もしかして、あなたなの?』

義姉さんが男言葉で話し、僕の身体は女言葉を話している。
なにも出来ずに聞いている僕は頭がおかしくなりそうだった。




結局、今の僕はあの黒い蝶に魂を吸われてしまったらしい。
二人の話を聞いているうちに、そう理解した。

そもそもが兄は蝶に魂を吸われたせいで死んでしまったようなのだ。

『気がついたらお前になっていたんだよ』

義姉さんは僕の身体に話しかけている。
ということは兄の魂が義姉さんの身体に移されたということなのか。
そのとき代わりに義姉さんの魂が吸われてしまったに違いない。
そう言われれば思い当たる節もある。

きっと、あの葬式のときだ。
あれから義姉さんの様子がおかしく感じるようになったんだから・・・

『本当に・・・信じられないわ』

そして僕の身体に義姉さんの魂が移されたことは確実だろう。
こうして僕が何も出来ずにここにいるのだから。

『弟には申し訳無いけど、その姿で生きていくしかないだろう』

義姉さんの身体をした兄が僕の身体の義姉さんに言う。

『それにほら、俺とお前の子だぜ。触ってみなよ』

大きくなったお腹を愛しそうに撫でながら二人は接吻を交わしていた。




すべてを見届けることなく僕は部屋を離れていく。
黒い蝶が飛んで出ていったためだ。

そうか、あのとき僕と寝た義姉さんは義姉さんじゃなかったんだ・・・
きっと義姉さんになった兄さんの好奇心だったんだろうな・・・

これから僕はどうなるのだろうか?
兄や義姉さんみたいに他の誰かに魂を移されてしまうのかもしれない。

不思議な蝶に運命をゆだねて、僕はただ宙を舞うだけだった。


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